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  • 海外留学体験談
  • 2017.09.06

「やろうと思えば何でもできる!」看護留学を経験して得た自信|体験談-山田 翔太さん

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2015年4月のご出発から、語学研修、看護専門コース、ファーム、そしてアシスタントナースとしての就労、バリ島での婚約、ケニアでの国際ボランティア活動、帰国、そして結婚、再就職……。人生のなかでここまで濃い2年間はないのではないかと思うほど濃密な時間をすごされた翔太さん。あらためて2年間の留学を振り返っていただきました。

考え始めたのは出発の2年前…


私は臨床4年を経て留学しました。初めて留学を考えたのは臨床3年目に入ったくらいのときだったと思います。もともと災害看護に興味があったため、英語はどこかで頑張らないと!と考えていました。また、海外生活への憧れもありました。この2つが看護留学のきっかけです。

臨床3年目のある日、「そろそろ留学について考えてみよう」と思い調べていたところ、ワールドアベニューからご連絡をいただきました。ただ、当時はまだまだ漠然とした思いだったこともあり、退職の準備も留学のための貯金も全くできていない状態でした。休みになればスノボ三昧で、貯金も一切なし!(笑)
ただ、お話を聞くなかで、「真剣に考えていこう」と思うようになりました。
国際協力活動に参加するにも、臨床経験は重要です。ただ、日本で臨床経験を積むのは、留学し英語力を身に付けてからでもできます。むしろ継続して臨床経験を積むのであれば、やりたいことは先にどんどんやってしまってからの方がよいと考えたんです。そこから1年後、改めてワールドアベニューに問い合せをしました。臨床3年目から4年目に入るときのことです。

留学することを自分の中で決断し、臨床3年目の終わりのタイミングでの師長に退職を相談…というより報告しました。師長さんからは、「臨床5年積み、チームリーダーの役職を終えてからの方がいいのでは?」といろいろアドバイスをいただきました。また絶妙なタイミングで以前から「異動したい」と希望していた科への異動の話も出てきました。念願の異動だったため、少しばかり躊躇しました。ただ、職場での責任も、新しい科での経験も、始めてしまえば、1年で離職する…… ということもできなくなります。基礎的な経験を積み、これから色んな選択肢が出てくる時期だからこそ、今のタイミングで一つ節目を置きたいと考え、最終的に留学を選びました。

以前から海外に興味があったことを知っていたのか、両親からの反対は特にありませんでした。彼女(今の奥さん)は、彼女の方がやりたいことを思い切りやっているタイプだったので、止められることもなく…(笑)

あえて課題だったことと言えば、「お金」です。
先述した通り、スノボにどっぷりはまっていた当時、休みがあれば雪山にこもり、散財していました。留学に反対はしなかった両親からも、「お前は3年も働いてなんでこんなに貯金がないんだ!?」と笑われてしまったほどです(笑)。
ただ、留学を決断してからスノボは封印、必死で貯金しました。結果、なんとか目標額を貯めることができました。留学するまでも、留学後、アシスタントナースとして働き出すまでも極貧生活ではありましたが…(笑)

語学研修‐まだまだ日本語英語…でも言いたいことを言えるようになってきた


到着して最初の約3ヵ月間は英語を勉強しました。カランメソッドという特殊な勉強方法で、とにかくスピーキングとリスニングの向上、発音矯正に注力しました。
留学前に受けたTOEICは500くらいだったはずなのですが、渡航後のスピーキングの試験では400点弱くらいの評価でした。ネイティブを目の前にものすごい緊張してしまったんです(笑)。ただ、カランメソッドでの勉強は今までの日本での勉強と全然違い、「聞いて話して」をとにかく繰り返します。スピーキングや発音には苦手意識があったので、少しレベル低めのクラスからスタートしたくらいでちょうどよかったのかもしれません。

英語研修は午前と午後のクラスがありました。
午前のクラスでは、レベル3~4、午後のクラスではレベル4~5を受けます。そして翌日の午前中に再度レベル4~5を受け、午後にレベル5~6に上がっていくという仕組みです。新しいことを学ぶ午後のクラスは、わからないことも多く、聞き取ることに精一杯です。ただ前日の午後の授業を復習する午前のクラスでは、積極的に発言できたり、周りの生徒さんを少しサポートしたりすることができるようになります。
そうやって繰り返し勉強を重ねながら、新しい文法や単語を体に叩き込んでいきました。

最初の2週間くらいは、特殊な勉強方法に翻弄されました。
しかし、時間がたつにつれて少しずつ「言いたいこと」を言えるようになっていきました。
英語力の成長を実感したのは、2ヵ月目の時です。
ある日、先生が生徒に向けて「何か質問はあるか」と投げかけました。日本人は、「沈黙」をもって「質問なし」という意思表示をしますよね。ただ、海外では質問がない場合でもNOをきちんと言葉で伝えなければ、「質問がない」ということにはなりません。YES、NOをはっきりと答えなかった私たちに、先生は「やる気がない」と注意しました。渡航して2ヶ月、英語はもちろん、オーストラリアの文化にもまだ慣れていない頃でした。当然、一生懸命勉強していた私たちは、驚くと共にとてもショックを受けました。
そこで、「皆必死に勉強している。YES、NOをはっきりと言わなかった私たちもいけないかもしれないが、文化や習慣が違う。頭から否定するのは間違っている。」と先生に抗議(?)しにいきました。先生も「そういうことか」と納得してくれました。文化や習慣の壁にぶつかり、自分の意見をきちんと伝える大切さを知ると共に、英語力の伸びを実感したできごとでした。

看護専門コース(Certificate 3)‐日本との違いは…


オーストラリアで看護助手として働くためには、オーストラリアで看護助手として働くために必要な知識や技術を学んだという証明=Certificateが必要です。通常は約半年間かかるコースですが、ワールドアベニューの看護留学の場合、わずか6~8週間程度のコースで正式な資格を取得することができます。もちろん、短期間で集中して勉強しなければならないので、大変です。
学校は朝から夕方4時頃までですが、その後、夜10時頃まで宿題や課題をこなしました。私の場合、土日はアルバイトしていたので、勉強する時間は平日のみ。毎日、一生懸命勉強しました。
Certificateのコースで勉強するなかで、日本と違うな… と思ったのは、「マニュアル」についてです。
シドニーのあるニュー・サウス・ウェールズ州では、州で統一されたさまざまなマニュアルがあります。例えばバイタル測定に関するケアフローのシートです。熱の項目で38度以上のところは赤くマークされています。その赤マークゾーンの熱を出した患者さんに対するその後の対応方法がすべて記載されています。スタッフ個人の病態に対する処理能力に左右されず、一定のクオリティで看護を提供できるのは素晴らしい点だと思いました。また、働き始めて分かったことですが、さまざまなことが州内で統一されているため、どの病院、どの施設で働くことになっても、働き方や規則、患者への対応など大きな差異はなく、働きやすかった点もオーストラリアの魅力だと感じました。

オーストラリアでの生活‐イメージと違ったホームステイ…だけど


私のホストファミリーは、インドネシア人のシングルマザーと高校生の娘さん、中国人の留学生でした。もともとのホームステイでのイメージは「テラスハウス」。海の見える豪邸で白人のファミリーとの優雅な生活を想像していた私の期待は大きく裏切られました(笑)。
ただ、結果的にホームステイはとても楽しかったです!
まず、アジア系の方なのでご飯はとてもおいしかったです。次に、ホストマザーは看護師でした。私が日本で看護師をしていたことやオーストラリアにも看護留学しに来たことを伝えると、とても応援してくれました。また、娘さんはとても素直で明るい子で、高校生同士のホームパーティーに誘ってくれました(笑)。
インドネシア語のアクセントがある英語に慣れるまでにやや時間がかかりましたが、それを除けばNOストレス。本当に楽しく過ごすことができました。

到着後4週間のホームステイを終えた後はシェアハウスに移動しました。

最初のシェアハウスはダーリングハーバーも近いピアモント。韓国人を中心とした留学生が滞在するシェアハウスでした。シェアメイトは全員で7人。家賃は週135ドル(12,000円程度)です。韓国の方以外にもトルコやスペインの方がいて、4人部屋でしたがモダンなデザインできれいなところでした。
その後、セカンドワーキングホリデービザを取得するため、ファームステイへ移動。

ファーム修了後、日本に一時帰国。セカンドワーホリビザを取得した後、シドニーに戻り、アシスタントナースとして働き始めました。
アシスタントナースとして働き始めてからはきちんと収入があったので、そこまでの極貧生活にお別れを告げ、ダーリングハーバーの花火を一望できるジム付のシティマンションに移動しました。5人部屋で170ドル(16,000円程度)でしたが、とてもよかったです(笑)。一緒に暮らしていたのは、フランス、ドイツ、アイルランド、インドネシア、韓国、イタリアなど、世界中の人たちと一緒に生活しました。文化も習慣も言葉も違うので、ぶつかることもありましたが、それらも踏まえ、刺激的な生活でした。

旅行もオーストラリアでの生活も思い切り楽しんだ!

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アシスタントナースとして働き出してからは食生活も一変しました(笑)。
留学当初は生活費を抑えるため、朝食は85セント(70円程度)の食パンと1ドル(90円程度)のイチゴジャム、大量のティーパックが入った5ドル(450円程度)の紅茶を1週間かけて消化。昼食は卵とチーズ、500グラムで10ドルのベーコン(格安スーパーマーケットで購入)。夕食はシェアハウスについているフリーライスと鶏肉料理。水が高いので、レモネードで水分摂取をしていました(笑)。昼食も準備する時間がなかったときは、食パンとイチゴジャムを学校に持参して食べていたため、語学学校の先生からは「ミスターホワイトブレッド」と呼ばれていました(笑)。

仕事を始めてからはおしゃれオートミールと豆乳。栄養バランスを考える余裕ができました。ランチは職場で取り、夕食は外食が多くなりました。よく通ったのは、マンションの下にあるものすごい美味しいタイ料理屋さん。夜勤明けで寝起きの格好のままパッタイを食べるのが最高でした。

一番働いていたときは月のお休みが6日間だけ。ダブルシフト*は9回、週の最高手取り額は1,300から1,400ドル(11万円から12万円)。低いときでも800ドル(7万円)/週でした。

*ダブルシフトとは…
1日に2回シフトに入ることです。オーストラリアは基本的に3交代制なので、午前勤務+午後勤務、午後勤務+夜勤などで合計12時間、または15時間程度働くシフトです。日本の日勤で残業したときのような感じでしょうか(笑)。
日本と違い、忙しい時間帯はあるものの、その忙しさも心にゆとりのある程度の忙しさです。また忙しい時間を超えるとあとはだいぶのんびりと過ごせます。長時間労働ですが、意外と大丈夫です(笑)。しかも残業はありません!

アシスタントナースの経験を経てケニアでの医療支援活動


看護留学ではアシスタントナースとして7~8ヵ月間働き、その後、オーストラリアを2週間程度かけて旅行。さらに東南アジアでの旅行を経て、12月から1月にかけての約1ヵ月間、ケニアでの医療支援活動(ボランティア)に参加、その後、日本に完全帰国しました。

アフリカでのボランティア支援を行うNGO団体を通じてケニアのボランティア団体とコンタクトを取り支援が必要な病院へ向かいました。ただ、向かった先の病院で医師と看護師がストライキを起こしており、結果働けず…。ケニアのボランティア団体のサポーターを名乗る16歳の少年に協力してもらい、再度医療支援に対するニーズのある病院を探しました。
マラリアに感染した患者を診る科を中心に、他の科(産科など)、いくつかの科で働きました。
マラリア感染患者を診たことはありませんでしたが、検査技師の方に検査の方法を教えてもらったり、治療の方法を聞いたりし、看護にあたりました。産科での経験もありませんでしたし、助産師の資格は持っていませんでしたが、看護師としてできることを事前に勉強し全力で支援にあたりました。災害支援や国際協力活動などでは、「自分は〇〇が専門だから…」なんてことは言っていられないんだろうな…ということを実感した瞬間でした。

ケニアでの医療ボランティア

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イライラしたこともありました。
ケニアの看護師の方々は、日本人の感覚からすると、もう本当にいい加減で…(苦笑)
例えば…
マラリア感染患者の治療を行う際に、4回点滴を行います。4時間で500mlの点滴を落とし、4時間置いてさらに500mlの点滴を落とし……というのを繰り返します。結果1日半で退院できます。
しかしケニアでは、なぜか、この500mlの点滴を落とすのに8時間かけます。そしてさらに待ち時間に8時間…。熱が下がって体が楽になった患者さんは、入院が長引けば入院費がかさむので、早く退院したいと言い、実際に治療が終わっていないのにも関わらず退院します。残念ながら血中の菌は死滅していないので、4回分の点滴が終わっていない患者さんの血を吸った蚊が誰かを刺せば、刺された人はまたマラリアに罹ります。

もちろん、500mlの点滴を4時間で落としきるように調整しました。すると、「早いはやい!!やりすぎよ!」と止められるのです(苦笑)。「いやいや、このペースでないと点滴が4時間で終わらないんだよ!!そうしたら、また悲劇を繰り返すんだよ!」と怒りをぶつけるも、イライラしている私をみて、ケニアの人々は笑います。
「翔太はなんでそんなにイライラしているの?ポレポレ―(スワヒリ語で大丈夫大丈夫という意味)」と(笑)。
ポレポレじゃない!!と思うも、もはや通じません(笑)。国際協力活動に参加するとなればいろんな意味で忍耐力が必要だな…と感じました。

良かったこともあります。
ケニアの人々は主にスワヒリ語を使います。ただ、学校で教育を受けた人々の多くが英語も学んでおり、医師や看護師などの場合、ほとんどの人が英語を話せます。私もケニアでのボランティア期間中は、挨拶やお礼などの簡単な言葉以外は基本的に英語でコミュニケーションを取っていました。
彼らが話す英語には強いアクセントがありました。しかし、特に違和感なく、溶け込むことができました。理由はオーストラリアでのアシスタントナースとしての経験です。多国籍なオーストラリアでは看護の現場でもさまざまなバックグラウンドを持つ人々と共に働いていため、ケニアでの英語コミュニケーションにも特に違和感なく溶け込むことができたのです。

帰国、そしてこれから


ケニアでの刺激的な日々を終え、日本に帰国。地元で応援ナースとしてしばらく3ヵ月働いた後、沖縄の大学病院で就職しました。(実はオーストラリアでアシスタントナースとして働いていた最中、一時帰国し就活しました)
沖縄には米軍基地があるからか、月に1~2回、外国人患者の対応をすることがあります。まだ入社して半年ですが、実際に「英語ができてよかった」と感じた瞬間もあります。

例えば、入社したばかりのときに、2週間程度入院していた外国人患者を診ることがありました。
その方は、病院から提供される食事に全く手を付けませんでした。最初は体調がすぐれず食事をとらないのではないかと考えられていました。しかし実際にコミュニケーションをとってみると日本食が苦手で、食べたくないというのです。食パンなどであれば…と提案してみましたが、食パンもNG。そこで奥様にお願いして食事を病院に運んでもらうことにしました。

正看護師として日々使っている言葉をそのまま英語にしようと思うと難しいことばかりで、医療現場で使う英語力としてはまだまだです。しかし、英語の土台ができたことで、チャンスが広がっていることは確かです。引き続き頑張っていきたいと考えています。

今度は少し腰を据えて臨床を積み、急性期医療のスペシャリストとしてナースプラクティショナーを目指していきたいと考えています。

皆さんへのメッセージ


私は、「やりたい」と思ったら、周囲に「やるぞ!」と言っていくタイプなんです。
もちろん、「やるぞーー!」言ったときは、「本当にできるかな…」と不安になる気持ちもあります。しかし、今回の留学も踏まえ、「自分って、やればできるんだな!」と自信を持つことができました。
例えば、お金も貯められるんだな!など(笑)

やりたいと思ったことは後回しにせず、どんどん挑戦した方がよいと思います。
留学は、行きたい!やりたい!と思っているタイミングでなければなかなか挑戦できるものではありません。

日本人は日本に帰ってこれないわけではないので、挑戦してみてダメなら帰ってきたらいい。やってみないとわからないことだらけなので、何事にも前のめりで進んでいくことをお勧めします。

お名前:山田 翔太様
留学プラン:アシスタントナース有給インターシップ(看護留学)
翔太さんが参加した看護留学について詳しくはこちらから→【看護留学】看護師限定の留学
渡航期間:2015年4月から2017年1月帰国

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